西田善太さん Global Partners Consulting Pte Ltd Director Ver 1

何をするかより、どこで何をするかを考えてみる。条件や環境が整ってないからこそ、新しく創りだせるものがありますね。その流れの中で見えて来た強さとは。Global Partners Consulting Pte Ltd Directorの西田善太さんに、これまでの経験から、人生のエッセンスをお伺いました。
場所を決める。これ、僕のスタイルなんです。何をやるかは、行ってから考える。
アメリカの大学を卒業して、ニューヨークで就職して6年間、東京に戻って6年。
そして、いまシンガポールに来て5、6年、大体5、6年単位で国を変える生き方をしていてやりきった感があると、次に行きたくなりますね。
後はやりたいことが見つかると、次へ。
Q)そもそもアメリカに行く決意をされたのは、どんな事からですか?
高校生の時にお友達はいたんだけど、どもり、あがり症で内気で、精神的に悩んでいた時期があって。病院に通って、絵とか書かせられたりしていました。
それで少し心が楽になって、高校3年夏休みに、2週間留学に行ける奨学金を頂ける機会を得て、カルフォルニアに行ったんです。
同じ位の年代の人と10名位、楽しくって、もう憧れなんでしょうね。それで、卒業はとりあえずアメリカに行こうと決めたんです。自由な感じが良かったんでしょうね、そこで、何かを感じたんですよね。
Q)もしかしたら、それを応募した時に、ご自身の中で何かが変わり始めていたんでしょうね?
だと思いますよ。
気が楽になったというのもあったんでしょうね。
あれが全部、原点だと思います。
あの状況から脱失出来たというパワーが今でもずっと続いていると思います。
Q)内側に情熱のようなものがあったのに、出来なかったということだったのでしょうか?
ただ単に純粋に悩んでいたんだと思います。
何かやりたいというのではなく、モヤモヤ感なんでしょうね。そんな思いがあって、アメリカに行って。
完全に治ったなと思った瞬間が何度かあって、大学では経済と法律を専行していたのですが、その中でも、ディベートのクラスが好きだったんです。
そのディベートで、相手のアメリカ人が凄く緊張しているんですよ。俺なんかより、もの凄く緊張しているんです(笑)
それまで自分の状態も時々良くなったり、でも、その緊張したアメリカ人を見たら俺より酷いのがいる、自分だけじゃないって思って。ディベートでは、僕自身も上がっていましたけど。
そういう経験から、ふっきれましたね。あがってもいいんだって思いました。アメリカに行って良かったなって思いましたね。キツかったけど、楽しかったですね。
Q)卒業されて、そのままアメリカでやっていこうと思ったのはどんなことからですか?
一旦、短期間で日本に帰っているんですけど、なんですかね?
やはり海外で育った(居た)人が、みな感じるものがあったんでしょうね。日本で感じる閉鎖感とか……。合ってないなって、そう勘違いする時期があってもいいんじゃないかなって。
合っているか否かなんて、まだ仕事もしてないので勝手な思い込みなのですけど。の頃は政治に興味があったのでまずは東海岸に行こうって決めたんです。
それから考えようと。
Q)場所をまず決めて?(笑)
そう、場所を決めて。
これ、僕のスタイルなんです。(笑)
常に場所を決めるが、スタイルなんです。何をやるかは、行ってから考える。当時アメリカで、ITと金融業界は流行っているなっていうのがおぼろげにあって。
Q)それは何年頃ですか?
1997、8年頃かな。それで結局、金融業界を選んでモーゲージ(証券住宅ローン)の業界に入って。
東海岸には、日系の不動産会社が一杯あったんですけど、日本人でモーゲージをやっている人がいなかった。入社した会社は大きな所で、営業や商品開発など、色々と教えて貰いながら始めたのですがフルコミッションだったんです。
Q)フルコミッション?
ビザは申請してくれるということだったのですが、固定給がない。東海岸はユダヤ人がとても多くて、私の入った会社も99%ユダヤ人でした。
ユダヤ人に色々と教えて貰いながら仕事をして行くんですけど最初むちゃくちゃ貧乏でしたね。
半年間、収入無かったですから(笑)蓄えを崩しながら。半年程して、本当にお金がなかったので、父親と、当時お付き合いしていた彼女、今のかみさんですが二人から仕送りして貰っていました。
Q)へ〜!!(笑)
一番キツい時期をなんとかそれでしのぎ、徐々に契約は取れて来たので、なんとかやっていけるなって思ってはいました。
それで軌道にのせながらやっていきました。
Q)それで半年後、やっと生活が落ち着いて?
そうですね、ようやく生活も落ち着いて、2002年までニューヨークまでいましたね。
そう、911のテロ事件が起きた時は、マンハッタンに居て、丁度打ち合わせをしていましたね。
凄かったですよ。8:30から社内ミーティングをしていたんですよね。一機目がビルに突っ込んだとニュースが飛び込んで来た時は、受付の女性が会議室に来て、どうやら事故が起きたらしいという内容だったんですね。
でも、二機目のニュースで、テロが起きていると分かった時は、もうみな大パニック状態でしたね。携帯電話が繋がらず、TVもつかない。ラジオだけが頼りで、次どこが狙われるか分からないと、生きた心地がしないですよね。
同僚達の子どもが通う幼稚園が、ダウンタウン(世界貿易センタービル・ツインタワーの辺り)だったので、もうみなカオスでしたね。丁度、その頃僕も結婚してかみさんもニューヨークに居たので。
Q)その場に居らしたのですね。今振り返ってみて、どんなことを思いますか?
やっぱり、いつ死んでも……、というか、人生、やりきらないと損だなって思いましたね。いつ何があるかわからない。
ただあの後、ニューヨークのパワーも感じましたよ。
一旦市場は落ち込みましたけど、その後は上がりっぱなしで、アメリカのパワーを感じましたね。笑い話ですけど、寄付金も凄くて。みなこぞって、寄付。会う度に寄付(笑)
Q)皆が復活していこうというパワーと、寄付へのパワーがイコールなのでしょうね。
そういった経験と仕事の関係と、あと、子どもも欲しいなと思っていたので、2002年に日本へ戻りました。
to be continued
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