疋田和久さん Treans-Ocenan Technology(S) Pte.Ltd. Managing Director Ver 1

68歳にして起業。それも自然の流れからとおっしゃる疋田和久さん。流れに任せていく中で、しっかりと自分の道を見出し創って行く。その秘訣をお伺いしました。
決断というか、自然な流れでしたね。行きたいと思っていたので、流れでその話が来て。
Q)シンガポールは、どの位前にいらしたのですか?
1989年、もう28年前ですね。
シンガポールまだ、日本食レストランもなく同僚達と、日本のレストランが出来たらいいなと話していた程です。
20年程、メーカーに勤めていたのですが転職してシンガポールに来ました。それまで何度か海外出張で、シンガポール、ヨーロッパなど行き、いつか英国か、シンガポールに住みたいなとぼんやりと思っておりました。
それでチャンスがあって、即、来ました。
Q)その頃は、すでに家族もいらっしゃったのですよね?
そうです。家も買ったばかりでした。
その新居には殆ど住んでいなかったですね。
Q)それは、大きな決断でしたね。
いえ、決断というか自然な流れでしたね。
行きたいと思っていたので流れでその話が来て。家族にも相談しませんでした。
Q)新居で生活が始まったという頃に? (笑)
なんでそんな事(転職)するのって感じでしたね。
当日、「ジョブ・ホッピング」という言葉が流行出して、それは、アメリカからの流れで、日本でも転職する人が出て来た。日本では、一度就職すれば定年までという定説の中で、少しそのような流れが入って来たころでした。
自分ではそう意識はしてなくて、ただ、行きたいからという思いだったのですが珍しかったのでしょう。日本の地方新聞「中国新聞」で海外への転職が珍しいと、取材に来られました。
Q)転職、そして新しい国での未知なる生活ですね。
僕にとっては、未知ではなくて出張で何度か来ていたのもありましたし。
シンガポールの何が良かったって、緑(植物)が良かった。出張で何度か行っていたイギリスに似ているところも良くて。当時は、空も綺麗でした。
Q)どちらというと、ワクワクしていた感じですね。
そうですね、無理もしていない感じですね。
家族はわかりませんが(笑)
Q)シンガポールにいらして、新しい生活が始まったんですね。
ところが、転職した先が全く異なる業種で入社してから、営業のやり方など合わないなと思い始めました。
僕なりに色々とやってみたのですが合わず、本社に辞めますと報告したんですね。
そしたら、ちょっと待ってくれと言われ、自宅勤務でいいのであるプロジェクトを担当してくれと。では、それまでは責任を持ってやりますと残る事にし、マレーシアに毎日の様に通う日々でした。そして、いよいよ退社することになって、シンガポールでお世話になった方達やお取り引き先にご挨拶に回っていたのです。
たまたまご挨拶に行った先に、日本から出張していた方いらしていて、その方が日本に戻られて会社で僕の事を話したようなんです。こんな人がシンガポールに居ると。
後日、その会社からお電話を頂きまして、もしご帰国なるのなら、うちに来ませんかとお誘い下さったんです。
その電話を受けたのは女房なのですが、女房にしてみれば、親の反対を受けて渡星し、これからと言う時に帰国するのは申訳ないと、その場で、この話をお受けしていたんですね。
今回は僕が折れようと、僕も同意しました。
そして、お受けしますとお返事をして、ただ、実際のスタートする日が2ヶ月先でしたので、それまで家族と旅行したりして過ごしていました。
いまでも覚えています。あれは、その年の8月23日です。お約束の日に、その日本の会社に行ったらその社長様が、お前が全然連絡してこないからと、他の人を採用したというんです。(笑)
あれ?僕は指定された8月23日に伺うと思いましたが、そしたら、たまたまシンガポール支店の方が帰国するということで、そのポジションが開くから、シンガポールはどうだって言うのですね。僕は、元々シンガポールに居たかったのですぐにお受けしました。
Q)急展開の上に、また道が開けていく。それにしてもそんな中で、不安は無かったのですか?
なんとかなる。
どうにかなると思いました。
その社長様も、とてもいい方でしたので本当にラッキーでした。
Q)疋田さんは、これまでの人生でも、どちらかというと “なんとかなる” と思っていらっしゃった方ですか?
僕たちの時代は、高度経済成長期でしたので、あまり考えずともなんとかなる。
そう思っていました。
Q)なるほど。社会全体がそういう雰囲気だったのですね。
僕らが学生時代はね、今と違って大学を卒業して、就職試験を受けにいくのも会社が交通費など出して下さって、旅行気分でしたね。
それで会社の試験を受けて面接の時に言われたのですが、この中で零点取った奴がいると言われて名前を言われたんですが、それが僕でした(笑)
僕は文学部卒業で、就職試験には、経済に関する問題が沢山出ていたのですが僕にはわからない。
なので、答案用紙を裏返して自分の感想をばーっと書いた。運がいいことに、営業の部長さんが面接官だったのですが零点取ったということが面白いって言ってくれて、それで採用になったんです。
Q)へー、ユーモアがありますね。(笑)
日本中が朗らかな、明るい時代でしたね。
いい時代に育ちました。
また、その僕の上司がとても変わった方でね。当時は景気が良かったので、周りはみな残業しているんです。そんな中、全く気にせず“疋田、帰るぞ!”って
当時、16:45終業なのですが、時間になると帰るんです。他の部署はみんな、残業しているんです。でも、全然気にしない。
その上司がよく言っていたのは、オレは、お前に残業するような仕事を与えていない。もし、どうしても残るようだったらそれを書き写して家でやれと。原紙は持ち帰られませんので、書き写したものを持って行って残業しろと。
当時は、コピー機なんてありませんからカーボン紙に写してやる。
Q)写す?その作業の方が大変ですね。
もの凄く厳しい人でしたけど、そういう面ではとても面白い人だった。
例えば、「〜の連絡先は?」と聴かれてメモをみようなら、「お前アホか!」と叱られた。そんな事くらい覚えておけと言われました。電話番号は100社くらい暗記しておりました。
それと、上司が電話で話しているでしょう?
すると呼ばれるんです。傍で聴いておけと言うのです。電話口で話していることを想像しろというんです。それが僕にとっては、とても学びになりました。
Q)そうやって仕事を覚える時代だったのですね。いまではマニュアルを渡されるだけだったりしますが(笑)
どちらが良いかはわかりませんが、当時は、電話口で上司の応対を聴きながら、こういうことを言っているな、こんなことかなと想像をしながら次の対応を考える。
そうやって僕は仕事を覚えました。
to be continued
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