
求められることをやる。私は、これをやりたいんです、やらせてくださいではなくて、これだったらいいよって与えられ、言われたことをやる。こちらがそれに合わせる。知らないことは、勉強する。
Q)映画の監督名には、書いてなかったのですか?
いえ、萩本欽一と書いてありました。でも、その時は、コント55号の欽ちゃんとはわからなかった。
下宿先にもTVがないし、実は、コント55号のことさえもほとんど知らなかった。(笑)
Q)え〜(笑)面白いですね。
それでね、呼ばれたのも夜遅かったんだけど、ふたりきりで朝方まで映画の話をして。僕が貧乏学生であることを知った萩本さんが、「家の2階に3畳間が空いているからそこで良かったら来たら?」と、言ってくれたんです。
僕は図々しく、本当ですか?って(笑)1週間後には居候として住み始めたんです。
Q)住み込みですか?(笑)
住み込みというより、居候ですよね。
芸能界は、全く想像出来ない世界で、僕とは生活の流れが違っていましたけど、萩本さんは貧乏学生の僕を置いてくれたんですね。おかげで僕は、フランスに行くお金を貯めることができて、大学を中退して、二十歳の時パリに行ったのです。
当時、国外へ持ち出せる外貨は、1000㌦まで。1000㌦とは、36万円の時代。僕は28万円位しか貯められなかったけど、見切り発車しちゃったんです。
当時、一番安い行き方は、横浜から船に乗って、ナホトカ(ロシア)に行き、そこからシベリア鉄道でフランスへ行くという方法。1971年、もう冒険というか、無謀というか帰ってくるお金も無いわけです。
28万円から行きの交通費を払ったわけですから、パリに着いた時に、もう帰るお金すらない。
Q)本当に、ただ行ってしまっただけなんですか?(笑)
そうです。学生ビザを取って行っただけです。
行く前はみな、必死で止めましたね。
Q)欽ちゃんは、行かれる時なんて言ったのですか?
僕はね、今まで欽ちゃんって呼んだことはなくて、僕にとっては、常に「萩本さん」なんですよ。
僕が学生でいる間はいて良いよって言ってくれたんですよね。「決してオレの生活に影響されちゃいけないよ。お前は学生なんだから、学業をしろ」と。全く二人きりの生活だから、彼にしてみると僕は人生の弟子。若い学生を面倒見てやろうという思いでいてくれた。
でも、道を誤ってはいけないから「学校に行かなくなった時には、ここを出てもらうよ」って言われていたんです。こんな萩本さんの思いがあったのに僕は、フランスに行くことを決意して、その為に大学を辞めて、アルバイトして準備を始めた時にその事を話したんです。
僕の話を聴いて、萩本さんは驚いたと思うけどこう言われたんです。「一貫、お前が明日から東京駅で靴磨きをやりたいって言っても、オレはお前をここに置いてやるぞ。お前が、色々考えて自分の将来の道を決めたんだから、その道に進んで行け。ここからパリに行けばいい、応援する」って、そのまま置いてくれたんです。実際にパリに出発するその朝まで、萩本さんのお宅でお世話になりました。
さらにその時に、萩本さんはこう話を続けてくれたんです。
「いずれ自分の人気が消えて、世間から忘れられていく時が来る。お前は、パリに行ってやりたいことをやればいい。お前がひとかどの人間になった時にそういえば、東京にいた時に萩本欽一って男がいて、世話になったなって、そう思い出してくれれば、オレは草葉の陰で泣くよ」って言ったんですよ。
Q)じ〜んと、来ますね。
その言葉が、ずっと励みになって今までやって来れたんです。
実際には、萩本さんはコント55号を解散して、寧ろ、“欽ちゃん”になってから国民的スターになられて、人気も上がってご活躍していますけど。
Q)もしかしたら、眞田さんを通して、萩本欽一さんはどこかにご自身をみていたのかもしれませんね。
自分の事を思い出させるくらい、貧乏で、それでも勉強したいという思いでいて。ましてや、パリに行くなんて言い出したりしてね。面白いやつだなって思ってくれたんじゃないかな。
萩本欽一さんは、僕の人生の恩人ですね。
そんなことがあって、1971年の6月にパリに着きました。学生ビザがあったので一応滞在資格はあったのですが、あまりにも物価が高すぎて。
Q)1000㌦じゃ、ひと月持つかって感じですよね?
パリで生活するのが目的だったので、学生というよりは何かしないと、なんとか稼ぐ事を考えないと、生きていけないと思ったのです。
Q)その時は、フランス語は話せたのですか?
アテネ・フランセでの猛勉強のおかげで、語彙は少なかったですけど、聞き取ることと、自分の知っている言葉で思いを伝えることは出来ました。それが幸いして、仕事にありつけたんです。
その仕事というのが、パリに日本から進出したばかりのアートギャラリーだったんです。そこが、僕のアートとの関わりのスタートなんです。
日本から進出した、オーナーが日本人のアートギャラリーに、求人はしていなかったのですが、何でもするので雇ってくださいと押しかけて行きました。
Q)へえ〜、面白いですね。(笑)
「うちは、アルバイトはいらない」って言われて、それでは正社員で雇ってくださいと言って。(笑)無理矢理に入り込んだというかそうしないと、食えないから。(笑)
Q)必死ですよね。(笑)
何度か断れながらも、自分はフランス語を話せるってアピールをして。じゃ、受付(電話交換)をしてみろ」ってテストされたんです。
電話をかけて来た誰もが僕が日本人と気付かず、その事にオーナーも驚いて「じゃ、雇ってやろう」ってことになったんです。でも、最初は経理をやれと言われたのです。僕は、算数、計算が苦手で……。
Q)しかも、フランス語ですものね。
「お前、経理やった事があるか?」って聴かれてハッキリ、算数は嫌いですって言ったんです。でも、これで断っちゃったら、せっかくの仕事が無くなる。
なので「フランス語で経理するんですよね?それならフランス人の会計士から、教えて貰いたい。一週間僕に特訓してくれたら、覚えます!」って、言ったんです。
実際にフランス人の会計士が来て、朝から晩までフランスの経理を教えてくれたんです。
Q)苦手なもの、しかも教えて貰うといってもフランス語で?
それしか僕を生かす手が無かったと思うんですよ。
だから、求められることをやる。私は、これをやりたいんです、やらせてくださいではなくてこれだったらいいよって与えられ、言われたことをやる。こちらがそれに合わせる。知らないことは勉強する。
経理をやり、銀行業務を覚え、輸出入手続きを覚え、取引、貿易を覚え、そうやって段々画廊が動いている中枢はどうなっているのか、経理をやっていると全部わかってくる。結果的に6年半、その画廊にいました。
Q)6年半、画廊のノウハウを覚えて、でもまだ26、7歳くらいですね。
日本から来た画廊と先程申しましたけど、日本が本店、パリが支店だったのですが、そのトップが交代することになったんです。日本のトップが、パリへそして、パリのトップが日本に帰国する。
その時に、パリでトップだった方に「一緒に日本へ戻って仕事をしてくれないか」と言われたんです。
パリに骨を埋めるつもりでいたので、そんなことを言われて、え?と思ったんですが、この方も、萩本さんに次いで自分の恩人中の、恩人。そうやって僕を頼ってくださり、これまで、僕を引き上げてくれて、職を与え、色々なことを教えてくれた方なので、一緒に行きますって、フランスを引き払って、帰国したんです。
結局は、後にその方と一緒にその画廊を辞めて、新しい画廊を設立したりなどしたのですが、それもなんだかしっくり来なくて。まだ自分は28歳の頃。
Q)そうですよね。元は、パリに行きたいと思ってた居たのに。
恩返しもしたし、やっぱり自分はパリへ戻ろうかなと思い始めたんです。
そんな頃、世界的に有名なオークション会社サザビーズ(Sotheby’s)の日本進出のオープニングパーティー会場で、当時、サザビーズの部長だったイギリス人に再会したんです。パリに戻ろうかなって話をしたら「もうパリじゃないよ、これからはニューヨークだよ。これからの美術品取引の中心はニューヨークだよ」って「君もニューヨークに来るべきだ」って、言われたんです。
でも、ニューヨークには誰も知人がいないからなって言ったら「僕が居るじゃないか」って!
to be continued
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