
シンガポールで、世界の芸術に触れる機会が大変多くなりました。数あるアートギャラリーの中、IKKAN ART INTERNATIONALは、芸術関係者の中でも、注目のギャラリー。芸術とは?色々な場所で、様々な人達との出逢いを通して見えて来た、眞田一貫さんのArt of Life。
僕の人生いつもそうなんですけど、なにかそういう糸が繋がっていくんですよね。
Q)私が初めて眞田さんのギャラリーにお伺いしたいのが、teamLabがいらした2012年頃ではないかなと思います。
2011年5月にシンガポールにて画廊を開けて、その翌年の秋のニューメディア・アート展に、最新アートとして teamLab(プログラマ・数学者、建築家、デザイナー、アニメーターなど、様々なスペシャリストで構成されているウルトラテクノロジスト集団)の作品を展示しました。
それがteamLabとの付き合いのスタートです。
今から3年半位前になりますね。それから僕の画廊のプログラムも、随分変わりました。teamLabに影響されたということもありますね。
Q)元々アートには詳しくないのですが、日本人のギャラリーオーナーの方がいるんだと、私でも耳にして、IKKAN ART INTERNATIONALのことを知りました。
初めてシンガポールに来た2010年ですが、その頃は、ギルマン・バラックス(Gillman Barracks)画廊街があるわけでもなく、大きな画廊といっても、ショッピングモールの中にあるようなもの。
あとは小さなローカルの画廊でしたね。
僕はニューヨークから来たのですが、その立ち位置からみると、ここはまだ開拓する余地がある場所だな、そういうフロンティア精神みたいなものがありました。
Q)新天地での開拓ですね。
ここにも画廊は、恐らく何十とあったと思います。
でも、僕にとっての開拓、未知の世界というのは、これまでニューヨークで扱っていたもの、アメリカやヨーロッパの戦後のアートを中心としたコンテンポラリーアート。
それから、100−130年前以降の巨匠の作品。
我々の世界では“物故作家”というのですが、そういった、いわゆる欧米主導で発展してきた美術市場で活躍しているアーティストを、シンガポール市場で紹介したり、販売したりすること。
その市場開拓に、意味があるんじゃないかなと感じたんですね。なぜなら、それを専門でやっているところがなかったから。
Q)ここには無いとはいえ、なぜ、シンガポールだったのですか?
僕は30年間近くニューヨークにいて、その前はパリ。
この美術の世界に入って、40年近く、そういう中できっかけとなったのが、僕が還暦を迎える年だったこと。自分が60歳を迎えるにあたって、自分は日本人、アジア人なんだということをより強く意識をし始めたことですね。
もうひとつの理由は、ニューヨークの美術市場も巨大化して、僕が始めた頃とは、質も大きく変ったんですね。
それまでは、芸術の波に乗っているだけではなく誰かの役に立っていた。画商だったり、作家だったり、アートコレクターだったり、何か誰かの役に立っているという実感があった。
ところが、ニューヨーク在住20年を過ぎたころから、美術市場の在り方そのものが変容してしまったんですね。
資本、お金偏重の世界になってきたんですね。
自分の強みを生かし、それをニューヨークでやるには、資本力がない。変容した世界で、自分のやりたいことをやり続けるのは、難しくなってきたなと思ったのです。
僕は、20歳の時に日本を出て、40年間という時を経てきて、この経験を日本やアジアで生かす方法もあるのではないかと思い始めたんです。
Q)新しいチャレンジが、ここアジアなのですね。
2009年、そろそろニューヨークを離れようかなと思っていたころです。
それまで、自分の仕事とは別に、自分が好きなものとして集めていた最先端の現代アートのコレクションが幾つかあるんです。
1984年創刊の、バルケット(Parkett)というスイスの出版会社が出した、マルチプルアートというのがあって、その本の初刊からの作品を、僕は全部持っているんですね。そういう買い方をするコレクターは、そういないんです。
普通、コレクターは自分の好きなものをコレクションするものですが、僕は、好き嫌い関係なく買っていたんです。なぜなら、持っているうちにひょっとしたら好きになるかもしれないし、みな若手作家でしたので将来がわからない。そのわからないというのは、自分が勉強不足でわからないだけかもしれない。そう思って、全部買っていた。
そんな時に、バルケット社から創刊25周年記念の展覧会に協力してほしいとご連絡を頂いたんです。
それで、新たにバルケットと共同で全作品を網羅した本も日本で出版して。金沢の21世紀現代美術館で現代アーティストたちのコラボレーション 25年という展覧会を開いたのです。
その展覧会の初日にシンガポールのギャラリーSTPI (Singapore Tyler Print Institute) のDirectorのEmi Euさんがいらしていて、その200点の作品を見て、とても驚かれて、ぜひ、シンガポールでやりたいのだけどとお話を頂いたんです。丁度、STPIのコンセプトに合ったのでしょう。これがきっかけで、2010年にSTPIでバルケット展を開きました。
その時、初めてシンガポール美術界を知ったんですね。
一人あたりのGNPが日本を抜き、富裕層がたくさんいるこの国だけど、文化、アートの世界のギャップがあるんだと、不思議に思った。だから、そういうアートを自分が持ち込んだら、新しい市場が出来るんじゃないかと思ったんですね。それは早とちりだったんですけど(笑)
そして、2011年の5月に倉庫街の中に、ギャラリーをオープンしました。
Q)出会いの流れで、シンガポールにいらした感じなのですね。
僕の人生いつもそうなんですけど、なにかそういう糸が繋がっていくんですよね。僕が突然シンガポールに行こうと思って、ここに来てリサーチして設立したわけではない。
人生にはタイミングがある。
良いか悪いかはわからないけど、STPIで展覧会をやったことで、シンガポールを見る機会を得たし、東南アジアで一番大きな美術品を保管する会社との出逢いなど、色々な人との出逢いがあったから今の僕があるんです。
最初の展覧会は、力を入れて戦後の現代アートの歴史を振り返るような、出来るだけ良い物を集めた豪華な展覧会にしようと思ったんです。ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)、アンディ・ウォーホール(Andy Warhol)とか草間彌生、村上隆などのアーティストの代表作をたくさん持って来たんですよ。
それは、おそらく過去にシンガポールで展示されたことがない規模の大きな展覧会だったと、今でも僕は思っています。勿論、それは経費も凄くかかってビジネス面では全く(赤字)だったんですね。
Q)まだ、ギャラリーを知らないですものね。
ニューヨークから来た画廊ということでザ・ストレートタイムズ(The Straits Times)とか新聞各社がスクープしてくれたんですけど、結果的に展覧会は大赤字で終わったんです。
石の上にも3年ではないですけど、新しい所に来て、すぐに結果が出るものではない。
とはいえ、売れないことがわかっているから経済的にも精神的にも、続けられない。では、どうやってシンガポールに留まったらいいかなって考えて違ったプログラムを見せるのがいいかなと思って。ただ有名作家の作品を持って来るだけではなくて、ここの人が味わったことがないアートを体験してもらうのがいいなと思ったんです。
例えば、森村泰昌というアーティストがいて、彼は、セルフポートレートの作品を作ります。著名な絵画の中に描かれた人物、例えば、ゴッホの自画像そっくりに変装をして、その格好で写真を撮ったりなど、1980年の半ばからやっていた。三島由紀夫の演説を真似て、その格好して語るビデオを撮ったりしている。
三島由紀夫が日本の政治を語った様に、森村はその語りの抑揚をそっくり再現し、日本のアート界に対して「西洋アートにいつまでも迎合していていいのか?日本にある伝統に、目覚めよ」って、語った。そのパフォーマンスを記録映画風に作品化しているのですがそういうビデオ作品だけを集めた展覧会をやったんです。ある一部の人にはとても評判だったのですがこれも大赤字でした。
Q)でも、話題性としては凄かったのではないですか?
とても凄かったです。
それまでにない良い展覧会だと思いました。アーティストご自身も、とても喜んで下さいました。そこで、もうとにかく、売ることを考えて展覧会をすることは、やめようと思ったんです。
自分が楽しむこと、そして大勢の人に向けてやるんじゃなくって、ほんの一部でもアートのクオリティが分かる、数少ないコレクターに向けて、やっていこうと思ったんです。そういうことで、少しはここシンガポールの美術界に貢献できると思ったんです。
Q)言い方が良くないかもしれませんが、どこか教育していくという感じですね。美術を伝えていく様な。
啓蒙ですね。そういう思いもありましたね。ここで商売だけを考えていても長続きしないなと。
ここで自分が役に立てることは、ここの人達がまだ知らないクオリティの高いアート作品を見せていくこと。きっと役に立つだろうなと。
その見せ方は、非常に個人的な、一方的な好みを押し付けてはいるんですけど、自分の画廊だからいいかなと思って。そのかわり、損をしても自分の責任。そういうこともあって、もっと新しい世界、デジタル、ビデオアートを見せる展覧会で世界にはこんなアート表現もあるんですよということも見せたくて。
自分がニューヨーク時代から持っている作品で展覧会を企画して見せることにしたんです。ところが1990年〜2000年の作品ばかりで、シンガポールの人にとっては新しいけど、今(の作品)がない。いくらなんでも、15〜20年前のものばかりではと思って。
じゃ、「今を見せる」ってなんだろう?そう考えたとき、 teamLabだったんです。
機会があって、猪子寿之さん(teamLab代表)と会って、初対面だったんだけど色々と話していくうちに、teamLabの個展になるんじゃないかなって思うほど彼らの作品の展示の仕方に力を入れました。
その頃のteamLabは、まだアーティストとしての知名度もなくて、シンガポールのコレクターも、美術館関係者も名前を初めて耳にするし、見るのも初めて。後にその展覧会がきっかけとなってSAM(Singapore Art Museum)のキュレーター達が何度も足を運んでくれて結果、シンガポール・ビエンナーレ(世界中から美術作家を招待して開催される展覧会)出品に繋がって行ったんです。
それと、毎年1月に行われるアートステージシンガポール(アートフェア)でteamLabの作品を展示したんです。そしたら、初日に完売してしまいました。その翌年にはもっと広いブースで行いその時の評判もとても良かったです。
SAMでやったビエンナーレの作品は、巨大な空間の大作なので、本当に今まで見たことのない新しいタイプのアーティストだと、世界にアピールすることが出来たと思います。
Q)元々眞田さんがギャラリーオーナーになったきっかけは、どんなことだったのですか?
僕は岡山市生まれなんです。どちらかというと貧しい、サラリーマンの家庭で育ち、親や学校の期待としては、国立の大学に入って落ち着いた生活をして欲しいと思っていたんですね。
ご存知ない方が今は多いと思いますが、1968年、世界中で学生運動が起こったんですね。大学を受験する頃に東大安田講堂事件があって、親の学生運動に無縁なところという思いもあって、結果、慶應義塾大学に入ったんです。
東京でアルバイトをしながら、下宿生活してました。
大学の2年になっても、学生運動の影響で授業もあまりないので、お茶の水にあるアテネ・フランセに通って、フランス語を勉強していたんですね。そこの先生の勧めもあって、フランスに行きたいという思いを描き始めたんですね。
その為には、お金を貯めなければならない。如何に生活費を減らすかを考えて、さらに、バイトを掛け持ちしている生活だったんです。
そんな中でも、好きだったのが映画なんです。年間300本位映画を見るそのお金だけは使っていました。
たまたま、実験映画をやる映画館で、16mmの映画作品に出逢ったんです。その映画のタイトルが「手」という作品で第一回監督作品と書いてあって。その映画にあまりにも感動したので、監督さんに感想文を書いたんです。
観賞後すぐ目の前にあった喫茶店に入って2時間位、長々と10枚くらい。
それを持って、また映画館に戻って、受付の方に「監督さんに渡して下さい」って置いていったんですよ。(笑)滅多にそんなことをするタイプではなかったんですが、よっぽど感動したんでしょうね。自分の下宿先の住所と電話番号を書いて置いていったんです。
そしたら2〜3日後、夜の11時近くに、その監督さんから電話がかかってきたんです。
Q)凄い〜!その監督さん本人から?
「僕の映画を気に入ってくれたんだって?ちょっと話をしたい。これから来ないか?」って、言われたんですよ。「オレの家、どこか知っているでしょ?」って言うんです。知らないって言ったら「君、ファンじゃないの?」って。
ファン?何を言っているんだろうって思って(笑)「じゃ、渋谷駅まで車向わせるから」って家に連れて行かれたんです。
で、その監督というのが萩本欽一さん(コメディアン、タレント)だったんです。
Q)え〜??欽ちゃん?その映画監督さんが、萩本欽一さんだったのですが?
そうなんです。
コント55号の萩本欽一さん。その人の作品だと思ってなかった。(笑)
to be continued
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